橋本治(はしもと・おさむ)
【長篇】
【短篇集】
蝶のゆくえ
【エッセイ・NF】
人はなぜ「美しい」がわかるのか
「日本が変わってゆく」の論 ああでもなくこうでもなく3
「わからない」という方法
生きる歓び
さらに、ああでもなくこうでもなく 1999/10‐2001/1
2004.11.30初版。初出「小説すばる」5篇、「小説中公」1篇。計6篇からなる短篇集。「小説中公」に書かれたものは94年の作だが、ほかは2003年と04年に書かれたものだ。
この本は冒頭の「ふらんだーすの犬」に尽きる。なんとも痛々しく、哀しい話だが、現実には日々起こっている、珍しくもなんともないことでもある。そのことがいちばんおそろしい。
ほかには若い女性の恋愛ばなしだの、遠隔地に住む親の怪我だの、若者に殺された夫だの、まあ「いま」あちこちで問題になっているようなことが取り上げられています。橋本治は、審判をくだすわけではなく(「ふらんだーすの犬」ですら!)、ただ淡々と書きつづる。そこが少しだけ物足りない、が、だからこそ少しだけ自分で考えることにつながっていくのかもしれない。
初出「小説すばる」ほか。橋本治の最新小説集。全6篇。
いやあこれは参った。橋本治の「小説」はつまらないと思い続けてきた年月はいったいなんだったんだろう。
帯のコピーに「主人公はあなた」とあるように、登場人物は現代を生きる「普通の人」で、描かれているのはどこかで聞いたことのあるような話ばかり。だが、これほどまでにその人の内面をつまびらかにした作品が、ほかにあっただろうか。
とくに若い夫婦の幼児虐待を描いた「ふらんだーすの犬」はすごい。こういうのを衝撃作と言うのだろう。あまりの救いのなさに、読後しばらくぼんやりして、なにも手につかなかったくらいだ。作家の想像力に畏敬の念を抱いたのは、まったく久しぶりのことである。
「美しい」は「合理的」や「カッコいい」とはどう違うのか。日本人の真・善・美を包括的に問い直したもっともシンプルな哲学書。
ああ、つまらなかった。というか、読めなかった。読んだけど読めなかった。つまらなさ度でいけば『生きる歓び』(橋本治著/角川文庫)の上を行く。小谷野敦が本書を「権威から逸脱しているつもりで、結局権威になってしまう人の姿を私はここに見る」と評したらしいが、わからなくもない。わたしは著者の信者であり続けるためには、少々年を取りすぎたのかもしれない。
「広告批評」の巻頭時評「ああでもなくこうでもなく」2001.2〜2002.4。タイトルでもわかるように、この間、いろんなことがあっただけに、読み応え大あり。
このたび著者は、もう自信をもってなにも分からないから、もうこれ以上分かんなくてもいい、俺の仕事じゃない、としているし、その前に、日本の政治に対しては「具体的な提言」をしない、とあるが、じつはじつは第二部で重要な提言をしている。
二十一世紀は、二十世紀的な考え方をすれば、「希望に満ちた世紀」ではない。二十一世紀は責任を取る世紀で、それをしなければ二十二世紀はない。二十一世紀がやってきたって、別に嬉しいことはない。しかし、二十一世紀が来なかったら、我々は矛盾の上に矛盾を築くだけになってしまう。それを回避させるために、二十一世紀を始めなければならない。
そのために必要なのは、まず二十一世紀を終わらせることだ。(p.304)
既刊の『ああでもなくこうでもなく』『さらに、ああでもなくこうでもなく』もあわせて、おすすめです。
「わからない」が恥であった世紀は過ぎ去った!超多彩なジャンルで活躍する著者がその秘密を聞かされて答えた「だって、わからないから」――かくしてここに、目のくらむような知的冒険の旅が始まる。
ああ、どうしよう。やっぱりすごくつまらなかった。借金返済のために書いたとしか思えない。どうしてこの人が「男のくせに」編み物をするようになったのか、どうしても知りたければぜひ。
ああどうしよう。すごくつまらなかった。
なんでもない「ふつう」の人々の人生。そのささやかな歓びと淡い哀しみを切々と描く短編集。名手・橋本治が紡ぎだし、九つのほのかな感動。
以上カバー裏より。じぶんの作品をじぶんで解説した「解説:橋本治と『生きる歓び』」がなかったらと思うと……。むぎゅう。
『広告批評』1999.10〜2001.1。
▽一九九〇年代に探るべきこと/大分の少年による一家殺害事件について
風呂場を覗いた、あるいは「覗きたい」と思った、性的な関心のある相手の下着を盗んだ、あるいは「盗みたい」と思った、さらには「たまたまそれが手に入ってしまった」ということを経験した男なんて、いくらでもいるだろう。そういう人間が窃盗で逮捕された例はあっても、殺人まで進む必要なんかない――そのことは世間の男たちがよく知っている。それだけ“当たり前”であるような知識が、どうして大分県の少年のところには届かないのか? (中略)性の衝動に駆られた未成年が悶々とするのは、いたって当たり前のことで、その当たり前の暗さを救うのは、「バカでー、おめー」という、人間的な批判の声――つまりは客観性なのである。そういう声がないまま、大分県の少年は凶行に及んだ。(p.223-224)
▽男の不在/『年齢退行』より
社会に出て行けなくなった息子は、母親の庇護の下にいる。母親は、息子を愛して、息子を“外に出す”などということを考えない。息子はずーっと家の中にいて、外に出ると時は母親と一緒だ――ということになって、しかし、そんな息子が一人で黙って外に出て行って何をしていたのか? 今や、ゴミの出し方にさえ罰則がある。そんなご時世に、なんで「子供の出し方」には罰則がないのか? 「子供を教育する」という頭がまったくない母親が、それでも立派に社会生活を営めていることになっていて、それが“自分の悲劇”だけを訴えている――その矛盾を“社会”が平気で見過ごしているというのは、よく考えたらとんでもない話なんだけどな。母親に責任を与えないということは、そういう形で、世の中が母親なる女を差別しているということでしかない。日本社会は、もう一回「社会性」という言葉を見直すべきだ。この理解がないまんま一枚岩の地域社会が成り立っているなんて、ただの野蛮だとしか思えない。(p.92)
とめてくれるなおっかさん。問答無用、ファン必読の書。
last updated : 2005/01/05
contact?
copyright(c)2005 by Dakendo-Shoten.
All rights and bones reserved.